ツタエル、あなたを生きる意味 / INTERVIEW 大軒巧

私は、大手企業でキャリアを積み上げてきました。

「職業CEO」のような形で、社長として会社を渡り歩くことを目指していたんです。

だけど、ある時気がつきました。

自分の描く社長の原点は、小さな会社をやっていた親父の背中だったことを・・・

時間はかかりましたが、自分が力になりたい人の姿が明らかになりました。
持っている全てを懸け、日夜戦っている中小企業の社長たちの力になりたい。
自分の志や、魂のつかい方がやっと分かってきました。

そう語るのは、CF Management株式会社 代表取締役の大軒巧さん。

現在オーナー経営者/企業を対象とした財務コンサルタントの立場から、社長の参謀として奔走しています。

新卒から大手企業で着実にキャリアを積み上げてきた大軒さんが40歳のときに訪れた、周囲が猛反対した決断と実行、理念で定めた志とは。

一人の人間が織りなす人生の積み重ねとその探究を、どうぞお楽しみください。



天真爛漫になれなかった三男坊

━━ まずは、大軒さんの幼少期についてお聞かせください。どんなお子さんでしたか?

私は、男5人兄弟の3番目として生まれました。世間のイメージそのままに、男5人の毎日は日々戦争状態。上二人からはいびられ、下二人からは突き上げをくらう毎日でした。それに対して、小さな会社をやっていた父親は、兄弟の誰に対しても怖い存在。男兄弟と怖い父親のいる家庭で、いつも周囲の状態をみては、気を遣う毎日でした。今思えば、小学校4、5年生時代が一番大人びていて、今より精神年齢が高かったんじゃないかと思えるほど。両親のケンカが続いた際は、父親に対して「そんなにケンカするなら、離婚してくれ。他の4人が母親について行っても、俺は親父についていくから。」なんて嘆願したりなんかして、周りのことを考える子どもでした。

━━ やっぱり成績はよかったんですか?

それが、中学校の中頃まではからっきしダメでした。父が会社をおこす前は料理人だったので、自分も調理師になろうかと思ってました。あるいはラジコンが好きだったので、工業高校に進んで、ラジコンメーカーに就職しようかな、とも。

そんな感じでしたが、中学2年の冬に転機がありました。家に、学研のおばちゃんが営業に来た際、母が私を呼びました。当時の成績を伝えるとそのおばちゃんが「頑張れば、上から4つ目のレベルの学校に行けるね」と言いました。僕自身は、高校のレベルなんて意識したこともなかったんですが、ふと「よく考えたら勉強なんてしてこなかったな」と思い、取り組んでみることにしました。

勉強することを最初父は反対したのですが、自分で「塾に行かせてくれ」とお願いし、行かせてもらいました。頑張ると結果が返ってくるのが面白くなって、成績がぐんぐん伸びていきました。最後は地域でトップの学校を狙えるくらいの成績になり、それが自分にとっての一つの成功体験となりました。


戦略思考が幕を開けたアメフト時代

━━ 高校時代はいかがでしたか?

実は、全然勉強をしませんでした。中学の成功体験があり、いつか挽回できるとたかを括っていました。また小中学校でやっていた野球がしんどかったので、高校では部活をせず帰宅部でした。代わりにビリヤードやテニスで遊んだりしたのですが、1年半ほど経ったときに「しまった」と思いました。何も残らなかった気がして充実感が薄く感じ、スポーツをやっておけば良かった・・・と後悔したんです。

だから、大学に入ったら絶対にスポーツをする!と心に決め、大学進学を目指すことにしました。浪人までさせてもらい、京大を目指すことに。大学でスポーツをするならば、その大学で一番強い体育会に入ろうと決めていました。当時、京大で一番強い体育会はアメフト部だったので、ぼんやりとそこに入部することもイメージしていました。

すごく自信はあったのになぜか落ちてしまい、神戸大学の経済学部に進学。大学は違いましたが、当初イメージしていたアメフト部に入部することにしました。


━━ アメフトでの経験がもたらしたものって何かありますか?

それはそれは、非常に大きいものがありますね。本当に文字通り「地獄のような」4年間でしたが、今も人間関係が続いていますし、アメフトなしの今は考えられません。アメフトではオフェンス(攻撃)の戦略を立てる“参謀”のようなポジションだった訳ですが、実はアメフトはとにかく頭を使うスポーツ。同時に「組織スポーツ」とでも言えるくらいチーム力がものを言う。

いかに、相手と空間と時間をコントロールできるかに頭をひねるのはもちろん、フィールドに出れば騙し合い。明らかに肉体面で有利な相手に対しても、戦略次第で勝つことが可能。常に戦略と戦術を練りながら、試合でその精度を検証し、次に生かす。

今考えると、現在の仕事とほぼ同じことをやっていましたね。社長の隣にいる参謀として、社長の想いと、社会と、業界構造なんかを踏まえながら得たい未来を掴む手伝いをする。戦略が好きだったからアメフト部に入ったのか、アメフトがあったから今の仕事があるのか、そこは定かではありませんが、常に「思考→実行→検証」というのを繰り返してきた人生と言えます。


自分の望む「社長」像を追いかけ続けた20年

━━ 社会人になってからはいかがですか?

当初から、漠然と「社長になりたい」という想いがありました。父親が小さな会社を営んでいましたが、いろいろなものを背中にしょって苦労していたけど、倒産の危機も乗り越え、いつも身体を張っていました。それはそれで一つのかっこいい姿でしたね。また大学時代から社会人になって培った戦略思考もあり「自分の思うままにやってみたい」という願望がありました。

結果的に選んだのが日商岩井という総合商社(現双日)。事業をつくる、という仕事が社長につながりそうな予感がしていました。しかし、最初に配属されたのが財務経理の部署で、正直がっかりしました。営業で世界を飛び回ることをイメージしていましたから。

ただそのおかげで、28歳のときに父親が死んだ後父親なき後の会社の数字を見ることができ、会社の危機を乗り越えることができました。また、大企業の財務をみた経験が今に確実に生きている。キャリアの選択はわからないものですね。


━━ その後、29歳でご転職されています。その決断の背景には、何があったのでしょうか。

振り返ってみると毎回そうなのですが、私にはキャリアの選択において「このままこの会社に骨を埋めるか、自分のやりたいことに踏み出すのか」という選択が訪れるタイミングがあります。そのたびに、悩みながらも後者の選択をしてきました。

商社を辞める際も、大手でしたし約束された未来はあった。しかしいつか社長になりたい。という夢があったので、当時「起業家養成機関」と謳っていた中小企業の経営コンサルを行う会社に転職。2年間本当にブラックと言える状況で働き続けました。社長のリアルに触れてその大変さを実感すると同時に、数字をつくることの難しさ、経営にはお金だけでは成り立たない要素が多数あることなど、とにかく吸収した2年でした。ものすごく力はついたのですが、さすがに労働環境(拘束時間など)に危機を感じ、3社目として日本コカ・コーラを選びました。

━━ またそこから大手へのご転職ですね。そこでのお仕事はいかがだったでしょうか。

仕事人生の中でも、かなり面白い時代でした。最初は全国の工場および物流の最適化のプロジェクトに関わった後、その後は社内公募でマーケティングの部署に異動しました。自分の立てた戦略が全国で展開され、それが数字となって跳ね返ってくる日々。そんな毎日は非常にエキサイティングでした。

戦略と同時に、組織について考える機会も多かったですね。会社自体は少数精鋭でも、販売会社さんまで含めると大組織。その中で、人がついてくるリーダーシップの在り方なんかも試行錯誤した経験でした。

━━ そのまま活躍されても良さそうなのに、またご転職されましたよね。

はい、いつも浮かぶのは「ここで骨をうずめるか、やりたいことをやるか」という選択肢。目標は社長になることでしたので、日本コカ・コーラの社長になれるか?を考えてみましたが、魅力的なポジションではなかった。もう少し規模の小さなところで、現場の肌感覚を感じながら、自身の裁量で経営できる立場が理想でした。同じ外資でも、2〜300人単位の会社の経営を体感できるのがジョンソン・エンド・ジョンソンという会社だったので、転職を決意しました。

そこでは、カンパニーのトップ(社長)の近くではたらき、その姿を間近で見せてもらいました。その結果、外資の日本のトップという立場は自分の考える理想の社長像とは異なっていたことに気づきました。やはり本国の会社の意向は無視できないことも多く、裁量権があるようで限定的なことも。その状態をみて、本当にこれは自分の求めている姿なのかと悩んだ末、ここではないという結論に至りました。


「職業としての社長」から、自分の手による起業へ

━━ その次に選んだのが生命保険の営業。大手企業のポジションや待遇を捨て、フルコミッションの世界に進んだことに、周囲のみなさんは驚かれたのではないですか?

はい、すごく驚いていたし、反対もされました。これまでの大手企業のキャリアを捨て選択したのが保険の営業。年も40を過ぎる頃でしたし、そこに進まなくても・・・という反応が多数でした。

自分の中には、その時大きな気づきがありました。それまでは社長になりたいといっても、創業社長のイメージをしてなかったんです。外資の社長として、数年単位で会社を変わる、そんな社長をイメージしていました。それを追い求めていたけど、何か違うことが現実として分かってしまった。その時に思い起こされたのが、実家の父親が体現していた社長像。こっちの方が求めていたものに近かったことに気が付きました。自分自身で会社を起こすという当初の想いに、40を過ぎてやっと戻ってきた気がしましたね。

━━ それで選んだのが、どうして生命保険の営業だったのでしょうか?

当時から、自分の中には中小企業の社長を助けたい!という強い想いがあり、ジョンソン・エンド・ジョンソンを辞めて即財務コンサルタントとして起業!というのも考えました。しかしすぐに独立してやっていける自信がありませんでした。だからまずは中小企業の社長と人脈をつくり、彼らの会社の財務を扱うことで力をつけていこうと思いました。その際の最適解の一つが、生命保険の営業だった訳です。


━━ 始めてみていかがでしたか?

最初は本当に泣かず飛ばずで、冷や汗しかない1年目でした。正直保険の仕事をなめていて、簡単に売れると思っていたんです。相手の知らない知識を教えてあげればお客様になってくれると思っていたのですが、全然うまくいきませんでした。年収は前年の1/4になり、怖かったですね。あまりにうまくいかないので、当時から面識のあった社長の方々に素直に教えを請い、一つ一つ中小企業の現実を教えてもらいました。今思えば、まともな営業なんてしたことなかったんですよね。

急激につまづいた1年目でしたが、その時期があって本当に良かったと思っています。人と人で向き合うことで信頼が築かれ、強い絆が生まれる。その時になってやっと話してもらえる話がある。そこからが関係性の始まりだと思いますし、自分自身そういう付き合い方に、すごく魅力ややりがいがあること気づけた経験でした。

そこから5年、中小企業の財務改善や資産形成のをみる経験を積み、昨年起業しました。


「こんなはずじゃなかった」ときに定めた理念

━━ 約半年前に理念を一緒につくらせていただきました。当時は大軒さんにとってどんなタイミングだったのでしょうか。

6年近くかけて起業したので、準備は万端なつもりでした。「保険の手数料収入ではなく、コンサルタントフィー(報酬)で食べていく!」と意気込んだものの、そのシフトは思いの外難しく、主な収入は保険の収入ばかりでした。それでも起業1年目は基盤をつくる、ということで保険に振り切ったのは良いのですが、2年目に入ろうとする中で「果たしてこのままでいいのだろうか?」という疑問がわきました。そのタイミングで大野さんと何度かお話する機会があり、確固たる軸をつくるために理念をつくろうと思いました。

自分でも何度か理念は考えていたし、9割型できあがっていたと思うんです。でも最後の一詰めに至っておらず、どこかもどかしい感じが常にありましたね。

━━ ちょうど、そんなタイミングだったんですね。その結果できた理念がこちらでした。


【 理念 】

お金の反逆を未然に防ぎ
未来へ繋げる基盤をつくる


━━ また大軒さんには、理念と一緒にvisionもつくらせていただきましたね。


【 vision 】


全てを懸けた人が、報われる社会へ


━━ ぜひ、込めた想いについて、お聞かせください。

理念をつくる過程で、この「ビジョン」の根底に流れる想いを明確化できたことは大きかったです。自分の周りには、事業をやっていた父親はもちろん、年の離れた従兄がいるのですが、彼も自分が小さいときから事業をやっていました。この2社に対して財務の面からサポートしていたのですが、自分の中にふつふつと憤りが積み重なっていきました。私は社長って「ハイリスク請負業」だと思っています。特に中小企業の社長だと、自分の財産も、時間も、何もかも投じて事業を営んでいます。それで見合った報酬が得られればそれはそれで良いのですが、うまく対策を講じないと「稼いでいても手元にお金が全然残らない」ということはよくあること。あんなにも頑張ってはたらいているのに、社長がほぼ何も得ていない。それどころかマイナスになっている現実に多く直面してきました。

私は「そんなのおかしい」って思うんです。本来、誰よりも頑張っている人は報われるべきなのに、その頑張りに見合った報酬を得られている人が非常に少ない。お金って夢を実現してくれる素晴らしい手段だけど、税金や相続など銀行との付き合いなどで、いきなり牙をむいてくることがあります。それは会社の存続を危うくさせることもしばしばで、まさに「お金は反逆を起こす」ものだと思っています。

だからこそ自分はその分野の専門家として対策をうち、彼らが本当の意味で報われていくための手助けをしたい。今だと、起業することや社長になることの魅力が低く映ってると思います。「なんか大変そう」みたいな。その認識を変え、日本の開業率が上がると同時に、廃業率が下がるとしたら、最高だと思っています。そうなると、自分のビジョンに近づいていっている気がします。


オーナー経営者が報われるプラットフォームをつくる

━━ 理念をつくってからいかがですか?

おかげさまで迷いがなくなり、業績も好調です。これまでは、「保険かコンサルか」という手段にこだわっていたのですが、自分のやるべきことやビジョンが明確になったので、良い意味で手段にこだわらなくなりました。全てを懸けた人が報われるために、社長の意向を汲み取りながら、未来への基盤をつくっていく。そんな毎日です。

━━ 今後やっていきたいことなどありますか??

今は1対1でお客様に接する「点」のような関わりですが、それをどんどん広げていってもっと「面」での関わりをつくっていきたいです。具体的に言うと、オーナー経営者のコミュニティのようなものをつくり、そこに来れば経営にまつわるお悩みがワンストップで解決するような場所をつくりたい。よく言われる話ですが、日本の企業の99%は中小企業なんですよ。その多くが、うちの父親のように、取るべき対策を知らないばっかりに苦しい思いをしている。頑張っている人が裏切られないために、命を燃やしたいですね。

また、相続・事業承継の問題は喫緊の社会問題になっていますので、その対策ができる機関についても、また別途立ち上げることを構想しています。


生きる意味

━━ 軸が定まり、どんどんやりたいこと、やるべきことの焦点がフォーカスされつつ広がっていっている気がしますね。最後に大軒さん、「あなたを生きる意味」をお聞きかせください。

こうやって話すと偽善的に聞こえるかもしれないのですが、「世の中の役に立つ」です。振り返ってみれば、5人兄弟の三男坊として生まれ常に周囲のことをうかがう気性から人生がスタートしました。その後も一匹狼や目立つリーダーシップを発揮する!というよりは、常に周りに人がいて、チームの中の自分として己を活かしてきた気がします。その範囲が最初は家族に始まり、学校、会社、対経営者という形で広がってきた訳ですが、今は「世の中」というレベルで考えるようになりました。すごくシンプルに、目の前のお客様、そのご家族、従業員、取引先など彼らを守ることに魂をつかいたい。そこになんの疑いもなく進んでいるのが今立っている場所です。


━━ 「世の中の役に立つ」ですか・・・。「生きる意味」はもっと利己的なもので良いと個人的に感じているのですが、大軒さんからは、「役に立つ」という想いが混じりっけなしに伝わってきました。人って、自己探求が進み、突き詰めた先の行動をとると、こんなにも想いの純度が高まっていくんですね。まさに大軒さんの存在感から「生きる意味の多様性」を感じることができました。ぜひこれからも、多くの人が報われる社会となるよう、どんどん歩みを進めていってください。本日はお時間をいただき、本当にありがとうございました。

《 聞き手より 》
大軒さんは非常にスマートな方。身長も高く、おしゃれで、人当たりがよく気遣いがある、というのが印象です。しかしその胸の内には、報われていない人・社会に対する憤りと、そんな彼らを関係する人含めて全部守りたい。という熱い想いが煮えたぎっていました。そのスマートな外見とは裏腹に、まるで日本に残った最後の侍のような意志で生きてらっしゃる大軒さん。この記事では、そんな大軒さんの内に秘めたる想いが少しでも色濃く伝わることに挑戦しました。この記事から大軒さんの「熱さ」を感じ取っていただけましたら幸いです。共感した方は、ぜひ大軒さんと熱い想いを意見交換してみてください。


大軒 巧
Satoshi Oonoki


CF Management株式会社 代表取締役
大阪府生まれ。神戸大学経済学部を卒業後、総合商社の日商岩井(現双日)に入社、財務経理部門に配属。2社目として中小企業向けの経営コンサル会社に転職し、中小企業の経営改善に従事。3社目で日本コカ・コーラ、4社目でジョンソン・エンド・ジョンソンと外資系企業でマーケティングや経営企画を実践。ソニー生命保険のライフプランナーを経て起業し、現在に至る。
http://www.cfmc.co.jp/


CREDIT
Interview&Text:Yukiko Ohno
Photo&Edit:Maki Amemori

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